インターネットロックページ共同執筆 新譜/名盤クロスレヴュー
月刊 ロック・クルセイダーズ No.011 Oct.'99
1999/10/20 Updated







今月は新譜の月です
Brand New Choice of this month

THE FLAMING LIPS:
The Soft Bulletin


WPCR-10344 (Wea Japan) 1999/06/09



いちご大福ミュージック 

 廃虚と化した工場で録られたんじゃないかと思うようなボカスカと鳴るドラムの音に普通その組み合わせはやらないだろうという感じのシンセストリングスの音が奏でられたイントロの後に細い声のヴォーカルが乗ってくる。音の感じはまるでインディーズのデモ・テープみたいな感じで「ぐしゃっ!」としてるんだけど、そういった全てのプロっぽくない要素が全て吉と出ている。
 フリッパーズとかタンバリン・スタジオ系の音や、ビーチボーイズやフィル・スペクターあたりが好きな人...そう、良質のポップスにある甘さやはかなさを音楽の中に追い求める人なら、このFlaming Lipsの音の世界にハマってしまうのではないだろうか。

 僕自身は人より理屈の多い気質なので、音楽を聴く時にも自分で鳴らす時にもついついその中に「お題目」を探してしまうところがあって(だからロビー・ロバートソンとか好きなんだろうな-)そういう人間にとって、このFlaming Lipsのような音楽というのは非常に分析がしにくいと言うか、理屈を超えたところで「これとこれを鳴らしたら楽しかったからやってしまった」みたいなところがあって、しかもそれが理屈っぽい僕の耳にも理屈抜きで楽しく聞こえてくるものだから、これかけてりゃ部屋の掃除ははかどってドライブするにはゴキゲンってなもんだ。
 おもちゃ箱をひっくり返したようなガチャガチャした音がひとつになって強烈なイメージを持って鳴っている。まるで僕は伝統だけを重んじる保守的な和菓子職人だとしたらそこにいちご大福を持って登場してきた天才和菓子職人がFlaming Lipsってとこだ。

 ただ、負け惜しみを言うわけじゃないけれど、Flaming Lipsの音楽はそこに発想の新鮮さは教えてくれても、僕が今でも尊敬の念を抱くミュージシャン達ほどではない。いい悪いということではなく、Flaming Lipsの音楽には受け継ぐべきものがない。彼等の音楽は彼等がはじまりであると同時に彼等の存在だけで十分であって、次にこの手のバンドや音楽がでてきたとしても僕には何の魅力もない。Sotecのパソコンを見て「だったら最初からiMac買うよ」と言いたくなるのと同じようにこの手の音は彼等を一度聴けばそれで十分なのだ。それはなぜか?
 彼等の音楽を聴いて僕が楽しめたのは、僕が想像しなかった音楽の要素と要素の混ぜ方であり、方法論やサウンドコーディネイトの上で楽しめた部分だからである。彼等のセンスや音楽性を僕は嫉妬さえ覚えてしまうほど好きだけど、今の自分の日々の暮らしを彼等の音楽と共に暮らしていこうと思わないからだ。
 いちご大福もいいけど、ただの饅頭だって定番として残るだけのうまさがあるんだぞ、Flaming Lips。....やっぱり負け惜しみだな、こりゃ。

岩井喜昭 from " Music! Music! Music! "



部屋に浮かぶ風船 

 この間、イギリスかどっかの雑誌がミュージシャンを対象に行ったアンケート記事を読んでいたら、「ロックスピリットを21世紀に伝えられる人物は誰か」という問いに「マイク・マイヤーズ」と答えてる人が結構いて思わずニンマリしちゃった。マイク・マイヤーズが脚本・主演した映画「オースティン・パワーズ」は、近年稀に見る真っ当なロック映画だった。ロックの黎明期、世界はラブ&ピースの元に統一されると信じられていたあの時代に憧れを抱きつつ、彼らの思想がどんな結末を招いたかも知っている。後発ロックファンならではの微妙な心理を見事なバカ映画に昇華させたマイクは、かなり信頼できるロック兄貴だ。
 今年公開された続編「オースティン・パワーズ・デラックス」は、主題歌マドンナだって、ついにマイクのスピリットもハリウッドにスポイルされてしまったかとがっかり。でもこの映画は僕に、意外な出会いを提供してくれた。それがこのフレイミング・リップスだ。あ、フレイミング・リップスの起用がマイクのチョイスだったかどうかは知りませんよ。とにかくあのサントラ盤を聴いた僕は、彼らの歪んだ音像に久しぶりのときめきを覚えて、新譜・旧譜を買い漁ったのだ。

 「The Soft Bulletin」以前のオリジナルアルバムといえば、1995年の「Clouds Taste Metallic」にまで遡らなくてはいけない。異常にでっかくミックスされたガシャガシャうるさいドラムとヘナチョコ轟音ギター、音程はずしまくりの腹から出てないボーカル。とぼけたアイデアが転げ回る楽しい音楽は、彼らの形容詞である「サイケデリック」のイメージに近いのかな。「Clouds...」以降の彼らは、4枚のCDを同時に演奏すると1つの曲になる「Zaireeka」といった作品や、ステージからFM電波を発信してアンテナのついたヘッドフォンで聴くライブ、40台の自動車がクラクションで演奏するオーケストラ、なんて試みをしていたそう。
 そうしてようやくリリースされた久しぶりのポップアルバム「The Soft Bulletin」は、轟音ギターの変わりにチープなシンセサイザーが奏でる、スペイシーなシンフォニーともいえる作品へと進化していた。低音は歪むほどでかく、ボーカルはますますもって情けない。しかし、溢れるアイデアを整理し、爆発する轟音をセーブする選択眼の中に、今までの彼らとは違った懐の深さと強い意志というものを感じさせるのだ。

 アルバムを聴いていてまず耳につくのはアコースティックピアノだ。海の底みたいにエコーの効いたサウンドが、ミニマルなフレーズを延々と繰り返す。青く透明な閉息感。そしてそれをブリブリと切り割いていく荒削りなアナログシンセ。ギターを中心に置いた従来の編成と比べると、いわゆるロックとしては不安定な音像だ。しかし、ロックのコンポジションを逸脱することで、どこへ広がっていくかわからない増殖するサウンドスケープを想像させている。
 映像的な音の洪水を奏でたかと思えば、歪んだドラムやおかしなパーカッションがそれを打ち破る。静かに上昇していくような心地いいイメージは、螺旋階段を永遠に昇り続けるみたいなテープ・コラージュによって遮られ、所詮は閉じられた空間の中での上昇に過ぎないことに気づかされる。フレイミング・リップスの音楽は、解放を望みながら閉息を自覚している。部屋に浮かぶ風船みたいだ。ふんわりと軽くて柔らかくて、でも頭の上にはでっかい重しが控えている。
 美しいメロディのセンスは、よくよく聴けばやっぱりアメリカのものなのかな。実は、ゴスペルやソウルの匂いさえ感じてしまった。でも、歪みきった演奏はイギリスのニューウェイヴの感触に近い。イギリスのギターバンドに夢中になっていた頃に感じていた、「音楽」という現象の楽しさ、さびしさ。そんなものを思い出させる。

 ウェイン・コインのボーカルは、無造作な歌い方もラジオヴォイスも、少年のような刹那の憤りと諦めを感じさせる。でもそれは、ニューウェイヴみたいな溌溂とした焦燥感じゃなく、慢性的にいかんともしがたい生活の中で漠然と感じる焦燥感だ。ダラダラダラダラと平坦な低空飛行を続ける日常の中で漠然と感じる焦り。年齢相応にくたびれて客観的な洞察力を身につけていながら、規範としての正しい親父ロックに成長しきれないでいる彼らの開き直りのような。
 15年以上もバンド活動を続けて30代後半に差し掛かったフレイミング・リップスは、もしかしたら親父ロックのような「音楽的成熟」を狙おうと思えば狙えるのかも知れない。でも彼らはそれを避け、肥大した妄想を過剰に詰め込むパンキッシュな箱庭バンドとして歳を重ねてきた。近頃はやりの「ルーツ探究」や、古い世代のミュージシャンとのコラボレーションにはあんまり興味がないみたい。トリビュート企画なんかには積極的に参加しているので、ルーツに対する敬意はそれなりに持っているらしいんだけど、それを模倣したり取り込んだりといった活動には関心がない。
 みんなが追い掛けるルーツとやらは、明解な仮想敵や共通の夢、といった幻想をモティベーションにして、無邪気に表現の可能性を追求した結果だ。フレイミング・リップスはこの「The Soft Bulletin」で、ダルさの中にある新しい音楽を探究したのかも知れない。このアルバムは、あらかじめ終わっている時代を自覚して、モティベーションの不在を受け入れた上で、なおも無邪気な可能性を追求しようとした結果だ。緩みきった魂に強引に割り込んで喝を入れる数多の頑張れロックとは違って、これを聴いてると非常に現実的なレベルでの「生きる気力」というものが湧いてくる。
 
 「The Soft Bulletin」は、犬小屋から抜けだせない隙間だらけのハートにダイレクトに響く。犬小屋から這い出して、もはやステージ上の人である(と推測される)サダナリさんや岩井さんには、このいびつな音楽がどう聴こえただろうか。

山下元裕 from " POYOPOYO RECORD "



変質と消失のサンバ 

 このページのお蔭で、全く名前を知らないアーティストの作品を聴く機会に恵まれている。若いつもりでいたけれど、この3人の中では最年長。気が付くとつい有名どころ、シブどころのCDに手が伸びてしまい、「冒険」ってヤツをやらなくなっていたみたい。バッファロー・ドーターやチボ・マットなど、日本の意欲作はマメにチェックしているけれど(実はそのへんが一番好きなのだ)、海外のそれまではなかなか手が廻らなくて。
 というわけで、全くの「新顔」さんに接するのはこのページに携わっている大きなメリット。感謝、感謝。

 でも昔はそうじゃなかったよ。高校生の頃は今や死滅した「12インチ・シングル」(LPサイズで45回転のアナログ。輸入盤中心で3〜4曲入り)の全盛期。横須賀ドブ板通りの輸入盤屋や、ちょっとマニヤックなレンタル屋で「出来るだけ名前を知らないアーティストのものを」と漁る様に聴いていたっけ。要するに「青田買い」で、誰よりも早く、ユニークな音楽を見つけたかったのだ。
 時は'80年代の前半、「ポスト・ニューウェイヴ」勢が現れた頃で、「元祖ネオアコ」なんてのを浴びるほど聴いていた。今考えるとなんとも「青い音」でね(苦笑)。ドラムは打ち込み、ストリングスはシンセ、アコギの音がキンキラで、か細いヴォーカルがキエィと響いていたな。

 そこでこの"ザ・フレーミング・リップス"。あれ、このオープニングはあの頃にそっくり。かなりのキャリアを持つバンドらしいけれど、なんとも、この「青い」感じが懐かしいな。ドタドタドラムや高音のシンセは全盛期の高橋幸宏なんかも思い出させる。ボク、大丈夫?
 しかし、ちょっと、違う。ごめん。今年4月のニューラディカルズと同じようなコメントになってしまうけれど、ヴァーカルが全く歌えていないのだ。1曲目はギリギリ声が出ているけど、2曲目以降は全く駄目だ。このヴォーカル、「キー」という言葉の存在を知っているのかな?
 噛みついてばかりでは進歩がないので、昔の「青い音」と、今の「青い音」を少々比較。まぁ確かに、昔のヴォーカルも酷かったよ。芝居がかっていて、すすり泣いていて(苦笑)。12インチ時代に僕が一番ハマったバンドは、アズテク・カメラでも、ペイル・ファウンテンズでもなく、No.3的存在だった"ロータス・イーターズ"なんだけれど、うん、大げさで、女々しくて、困ったヴォーカルでした(笑)。でも「歌えていた」です。うむ、どこが違うんだろう?!

 当時の青い人達もせいぜい2人か3人組で、アートスクール中退とかで、そう音楽的な土壌に恵まれていたとは思えないけれど、でも、きっとフツーのバンド経験とかあって、ヴォーカル行為という「肉体表現」を体得していたでのではなかろうか。
 あえて「肉体」なんてクサイ言葉を使ったけれど、4月のニューラディカルズにも、今月のザ・フレーミング・リップスにも共通して感じるのは、音楽をする肉体の欠落、いや消失感だ。ターンテーブルとミキサーとサンプラーで育ったロック・ミュージシャン?いや、ターンテーブルさえも失って、DJ用CDプレイヤーかもしれない。

 いきなり前言を覆す様だが、半分オヤヂ、半分コドモの僕は、そんな苦言を呈しつつも「CDだろうが、サンプラーだろうが、何だってイイ!」という気持ちもある。どんな育ちであろうと、音楽する姿勢に共感出来ればいいのだ。
 ところが、このザ・フレーミング・リップス、キーやリズム、ヴォーカル表現に於いてイマイチ共感出来ない。プロとして、世界でリリースされるのならば、最低限のことは身につけておいて。お願い。

 '80年頃の青い人達と、'90年代末のそれとの違いはそんなところにあるのでは。永く音楽を愛する者として、それはちょっと残念なことでもある。
 「'80年代と比べるなよ。オルタナ・シーンのスタンダードを知っているのか?」という人もいるかも知れないな。オルタナは登場頃から聴いていた。ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツは最愛のバンドだし、プライマスの衝撃、モフィーンの芳醇には唸らされた。でも、そう、初期オルタナの彼らとも違うぞ。何かが、変質している。

 せっかくここで新人や若手、ブレイク前の中堅どころなどに出会えるのだから、ニヤリとさせる様なヴォーカルが聴きたいな。40歳になっても、50歳になっても「青田買い」で喜びたい、ロック・コドモの希望でした。

定成寛 from " サダナリ・デラックス "






See you next month

来月は " Good Oid Choice " 名盤の月です


(C) Written and desined by the Rock Crusaders 1998-1999 Japan





Back to the Index page