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97/12/07
第三回
バート・バカラックを
愉(たの)しむ

来日記念徹底研究










■はじめに・バート・バカラックって誰?

 Burt Bacharach-バート・バカラックの名前はこのページの読者の方ならば御存知でしょう。もしも名前でピンと来なくても、彼の代表曲である「雨に濡れても」や、カーペンターズが歌った「遙かなる影(クロース・トゥ・ユー)」を全く聴いたことがないという方は皆無だと思います。では何者か端的に述べよ。これは意外に難しい質問かもしれません。作曲家、ミュージシャン、歌手、アレンジャー、伊達男....答えはいずれも「Yes」ですね。

 「でもバカラックって、オジサン向けのイージー・リスニングでしょ?」その答えは「No」です。絶対にNo!。ジャズ・タッチ、ラテン・センス、ユニークな実験やユーモア感覚、そして確かなロック・スピリットを兼ね備えたバカラック・サウンドはこのページを熱心に読んでくれる方ならば間違いなく気に入る、いや、絶対に聴くべきモノなのではないでしょうか。

 ところで上の写真の通り、バカラックはこの11月にコンサートのため3度目の来日を果たしました。コンサート前夜に「ニュース・ステーション」にも出演、それをご覧になった方も多いでしょう。東京でのコンサートにはもちろん私も駆けつけました、が、なんと、プログラムがなかったのだ!貴重な資料になると思って楽しみにしていたのに「今回は作っていません」の一言で片づけられてしまった。主催者(テレビ朝日)ちょっと手抜きじゃないか!
 というわけで「アナタが作らないなら、ワタシが作る」の意気込みで、えーい、自分で書いてしまえ、という徹底研究であります。コンサートに行かれて手ぶらで帰って来た方、心配ご無用。人物や名曲紹介、CDレヴューにコンサート・レポート(演奏曲リストあり)まで、バカラックの全てをご紹介、出来るかな?

 それでは具体的にどんなサウンドを創って来た人なのか、まずはその輝かしいキャリアを簡単におさらいしてみましょう。




■History of Mr.Bacharach

 バート・バカラックは1928年5月12日、アメリカはミズリー州カンザスで生まれました。幼い頃から音楽とスポーツが大好きで、少年時代はピアノとフットボールに夢中だった、とライナーなどではカッコよく書かれていますが、現実はキビシイのだ。身長が足りずにフットボールは挫折し、その興味を音楽に集中させることになったのだそうですヨ。また居住地も3歳の時にニューヨーク州クイーンズに移っています。ですからほとんど「ニューヨーク出身」ですね。ほぼ生粋のニューヨーカーなのだ。こっちはカッコイイね。
 高校時代には当時大流行していたビ・バップ・ジャズに傾倒、バンドを結成てパーティーなどで活躍していたそうです。そして卒業後はモントリオールのマッギル大学に進学し音楽を専攻、さらにニューヨークのマンズ音楽学校、カリフォルニアのサンタ・バーバラ音楽アカデミーにも学んでいます。ずいぶん勉強の好きな人ですが、まぁ「勉強」というよりも音楽の仕組み、作り方を習得するのが楽しくて仕方なかったのかもしれません。このころアメリカにいたフランスの著名なクラシック作曲家ダリウス・ミヨーと、ピアニストで作曲家のヘンリィ・カウエルに学んだというのは有名な話です。
 卒業後は3年間の兵役に就き、除隊後の52年から歌手ヴィック・ダモンなどのピアニスト兼アレンジャーとしてその音楽人生をスタートさせます。実は最初はナイトクラブ回りのピアニストたっだんですね。

 そんな生活が5年ほど続き、57年のこと、バカラックにちょっとした転機が訪れます。作曲の他、サックス、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカル、コーラスに効果音までもひとりで演奏し、多重録音で作った曲「The Blob」が全米チャートの33位にまで昇るヒットとなったのです。ちなみにこの曲、『人喰いアメーバの恐怖/マックイーンの絶対の危機』といういかにもクダラナそうなタイトルのB級SF映画の為に書かれた、にょろにょろとした迷曲です(多分制作費なくてバカラックひとりで録ったんじゃないかな?)。またこの年はマーティー・ロビンスに書いた「ストーリー・オヴ・マイ・マイフ」もヒット。こちらはなんと15位まで駆け登っています。まさに作曲家バカラックの記念すべき年と言えるでしょう。
 またこの57年は作詞家ハル・デイヴィッドとの出会いの年でもありました。前述の「ストーリー・オヴ・マイ・マイフ」から始まるバカラック=デイヴィッドのコンビは50年代の終わりから70年代に至るまで数々のヒット曲を生み出しています。ハル・デイヴィットについては後ほど詳しくご説明しましょう。
 さらにこの頃、あの世紀の大スター「嘆きの天使」ことマレーネ・デートリッヒに声を掛けられ、彼女の伴奏やアレンジなどを3年間つとめています。

 60年代初頭のバカラックは極めて職業的な作曲家だったようです。ニューヨークの音楽の城「ブリル・ビルディング」(数々の音楽出版社があり60年代ポップスのほとんどがこの建物から生み出されたといっても過言ではない)に籍を置き、ドリフターズやジーン・ピットニーなどに曲を提供して、確実なヒットを飛ばしていました。のちにビートルズがカヴァーし、有名になった「ベイビー・イッツ・ユー」を、ガールズ・ポップ・グループのザ・シレルズに書き下ろしたのもこの頃です。この時代のバカラックは日本ではあまり評価されていない(というか知られていない)ようですが、このページでは後ほど紹介してみたいと思います。
 そして60年代中盤から、重要なパートナーであるディオンヌ・ワーウィックとのコラボレーションが始まります。日本で「バカラック・サウンド」と言えばこの時代、バカラックと作詞のハル・デイヴィッド、そしてディオンヌの「聖三角形」によって作られた名曲の数々と、続く60年代後半、ハーブ・アルパートやセルジオ・メンデスによって演奏された「A&Mサウンド」が有名ですね。さらにこのころ、ジャッキー・デシャノンやダスティ・スプリングフィールドといった女性シンガーに提供した曲でバカラックを知ったという年配のファンの方もいらっしゃることでしょう。

 70年代に入ってもバカラックの快進撃は続きます。まずは70年、映画『明日に向かって撃て!』のテーマ曲「雨に濡れても」が見事全米1位を獲得。アカデミー賞も受賞します。さらにこの年、カーペンターズが歌った「遙かなる影」でも1位に輝きます。バカラックの名前を知らない人でも、この2曲は絶対に知っているでしょう。そう、いまだにCMやドラマで使われている「あの曲」を作ったのがバカラックです!

 80年代のバカラックこそほとんど語られていませんね。クリストファー・クロスが歌い81年に全米1位を獲得、日本でも大ヒットした「ニューヨーク・シティー・セレナーデ」、パティー・ラベルとマイケル・マクドナルドが歌い、86年にやはり全米1位となった「オン・マイ・オウン」など実は実はバカラックの曲です。

 そして90年代も終わりに近づいた今、バカラックに再び栄光の日々がやって来ました。世界中の音楽ファンが、アーティスト達がバカラックを讃え始めたのです。日本でも70年代生まれの若い世代に人気沸騰!今やバカラック・サウンドは「オシャレのマスト・アイテム」となっているようです。
 60年代ソフト・ロックのリヴァイヴァル・ブームに乗ってか、サウンド・トラックを追い求めるラウンジ・ムーヴメントの影響なのか、その理由は定かではありませんが、なんだい!ブームなんか関係ないやい!俺は小学生のころからバカラックを聴いて来たぞ!高校の時(83年)に中古屋でディオンヌを買ったぞ!と最後の最後にポップス・オヤジになってしまう。やれやれ、せっかく冷静に書き進めて来たのに(苦笑)。




■Sounds of Mr.Bacharach

 さて次にバカラック・サウンドの魅力について考えてみましょう。良く言われるのが「大衆性と実験性の共存」です。数多くのヒット曲を生み出し、多くの人々に愛されているバカラック・サウンドですが、これがなかなか前衛的で実験的。さて、どんなことをやっているかというと....。

 私が思いつくのはなんといっても「ヘンな楽器ヘンなリズムヘンなアレンジ」ですね。まずは楽器編。例えばあの大ヒット曲「雨にぬれても」はいきなりウクレレから始まっていたし、映画『カジノ・ロワイヤル』で使われたこれまたヒット曲「ボンド・ストリート」ではミョーなオルガンが決め手になっていました。さらにディオンヌで有名な「汽車と船と飛行機」に至っては、なんだかよくわからない楽器の音まで入っています(なんなんだあの音?ギターとミュート・トランペットか?)。
 そのほかにもティンパニー、トロンボーン、ラテン・パーカッション、ミュート・ギターそして口笛などを多用。他の作・編曲家には真似の出来ない独特なオーケストレーションを創り出しています。

 次にリズム編。ユーモラスな曲は大体「ずんたか、ずんたか」で創られています。究極が前述の「ボンド・ストリート」で、トコトコとずっこけつつ突進するリズムが実にユニーク。シャッフルとボサが混じったようなリズムも多用しています。有名どころでは「愛の面影」「小さな願い」あたりがそれに当たるでしょう。ワルツの曲が多いのも特徴のひとつで「世界は愛を求めている」「何かいいことないか子猫チャン」「素晴らしき恋人たち」等々、みんなワルツでアル。変拍子も多いですね。「プロミセス、プロミセス」のイントロなど、どう拍子を取ればいいのか分からない程です(また演奏者泣かせの転調の多用もポイントか)。
 実は私は、このヘンなリズムこそバカラック・サウンドが日本人にも人気の高い理由なのではないかと考えています。巧く言えませんが、なんとも、こう、日本人的というか、日本人好みの「わかりやすさ、ノリやすさ」を感じるんだなぁ。

 最後にアレンジ。バカラックの曲の多くが、メロディーのみならずイントロや間奏まで、聴く人に強い印象を残しています。例えば「サン・ホセへの道」といえば、あの♪パッパ・パパのイントロなしには考えられないし、「ベイビー・イッツ・ユー」から♪シャラ〜ラララは外せない(ビートルズだってそのまま歌ったのだ!)。これはいうまでもなくバカラックが優秀なアレンジャーであった証拠でしょう。いや、バカラックはイントロや間奏もしっかりと「作曲」していたのです。ヘンな男声コーラスやストリングス的な女声コーラスはその他にも数々聴かれます。バカラックは人間の声もユニークな「楽器」としてアレンジしていたようですね。

 60年以降のバカラックにはひとつの「パターン」も見受けられます。在籍したA&Mレコードの盟友、ハーブ・アルパート(tp)の影響もあり、リード・トランペットを多用するのです。大体が1本、多くて2、3本のペットがヌっと出てくる感じ(カーペンターズ、ディオンヌで多用)、あれが「いかにもバカラック」って感じで、たまらないんだよなぁ。
 訥々としたピアノとヴォーカルにペットが重なり、ティンパニーが鳴ると一斉にフル・オーケストラが出てくる....そんなサウンドこそ60年代バカラックの真骨頂でしょう!

 やたらと「ヘンだ、ヘンだ」と書いてしまいましたが、そのメロディーの美しさとわかりやすさこそバカラック・サウンドの最大の特徴といえるでしょう。「雨に濡れても」「遙かなる影」も、誰だって口笛で吹けてしまうではないですか。
 昨今のバカラック・リヴァイヴァル、実はメロディーが崩壊してリズムも怪しくなったダンス・ミュージック全盛の音楽界に対する「反動」なのでは?とも考えているのですが。メロディーの復権、オーケストレーションの復活、素晴らしいことではありませんか!その象徴がバート・バカラックその人なのではないでしょうか、ね。
 




 ちょっと長かったですが、バカラックとは何者で、どんな音楽を創って来たのか、大体はおわかりいただけたと思います。「大ヒット曲」とか「有名な」という曲を実際にお聴かせ出来ないのが本当に残念です。タイトルだけではわからなくても、わずか数秒聴けば「あぁ、この曲か」と気付かれるものばかりなのですが....。

 さてこのバカラック特集、人物、曲、CD、コンサート・レポートと、とても立体的かつ階層的な構成になったので、ちょっとしたメニューを作ってみました。windows95をお使いの方ならすぐにわかる、お馴染みの、あのデザインです(Macの人ゴメン)。どことなく名前の似ている「バカボン・パパ」をクリックして、そのメニューにお進み下さい。





わしはバカ田大学出身
輝かしいキャリアは説明不要なのだ
クリックしてバカラック・メニューに行くのだ




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